神話時代

年表

1299年オスマン君侯国成立。
不明ビザンツ帝国?との戦争に入る。
1326年オスマン一世崩御。オルハン即位。
首都をブルサに建設。
1331年ビザンツ帝国との間に和平が成立。
1354年バルカン半島に進出。
1362年オルハン崩御。ムラト一世が即位。
1366年ブルサよりエディルネに遷都。
1389年ムラト一世崩御。バヤズィト一世が即位。
1393年ブルガリア全土を掌握。
1396年ニコポリスの戦いにて十字軍を撃破。
1402年アンカラ戦にて敗北。帝国が一時解体。
バヤズィト一世は捕虜となり皇帝不在となる。
1405年ティムールの死によって再建が進む。
1413年メフメト一世により帝国が再建される。
1422年第二次コンスタンティノープル?包囲。
1444年ヴァルナの戦いにて十字軍を撃破。
1449年ハンガリー侵入。
1453年コンスタンティノープルの陥落?
イスタンブール?建設開始。
1479年ギリシャ、ユーゴスラビア諸国を占領。
1481年メフメト二世崩御。バヤズィト二世が即位。
1485年マムルーク=オスマン戦争勃発。
1516年マムルーク朝よりシリア獲得。
1517年マムルーク朝征服。エジプト併合。
1520年セリム一世崩御。スレイマン一世即位。
1521年ベオグラード攻略。
1522年ロードス島攻略。聖ヨハネ騎士団を粉砕。
1529年第一次ウィーン包囲。
1534年バグダード攻略。イラクを征服。
1538年プレヴェザの海戦に勝利。
地中海の制海権を掌握。
1541年ハンガリーを併合。北部アルジェリアを征服。
1546年イエメンを支配。
オスマン帝国、黄金期を迎える。
1566年スレイマン一世崩御。セリム二世即位。
1583年オスマン帝国、最大領土を迎える。

オスマン帝国の成立《前期》

オスマン一世の台頭〜建国初期

1299年、突如としてアナトリア半島西部に現れた遊牧民戦士であるオスマン一世?は遊牧民や戦士達を従え、ビザンツ帝国?の支配が及ばない地域で略奪や侵略を行い始めた。
オスマンを指導者としたレヴィニエトと呼ばれるレヴィン教を信仰する戦士達はアナトリア各地で戦い、時には和平しながら勢力を拡大。
ここに現代のアムルースク=オスマン帝国の前身となるオスマン君侯国が成立する。
君侯国はアナトリア西北部のソユットを本拠に、アナトリア西部を中心とした勢力を築き上げた。
1326年オスマン一世は没し、次代はオスマン帝国の実質的な帝祖となるオルハン一世?が君侯国を帝国へと進化させていくことになる。

侵略時代〜勢力後退

1326年、オルハン一世は即位と同時にビザンツ帝国の地方都市、ブルサを占領。さらにはマルマラ海の制海権も奪取し、ヨーロッパ大陸を望むまでに領土を拡大した。そしてオルハン一世は最終的にはコンスタンティノープルの対岸に位置するスクタリをも手中に収める。
1346年、後継者争いが激しくなったビザンツ帝国皇帝たるヨハネス六世の娘がオルハンに嫁いでくる。
安心しきったヨハネス六世はバルカン半島、東トラキア地方へオスマン帝国勢力を進出させる。
(後にこれが滅亡への遠因となる。)
これをきっかけにバルカン半島への侵攻を開始したオスマン君侯国はヨーロッパ大陸、アナトリア西部にまたがる領土を手に入れ、ビザンツ帝国を東西より包囲する形で勢力を拡大する。
さらにオルハン一世はガリポリ大地震に便乗してガリポリを占領。ここを帝国海軍の本拠と定める。
こうしてオスマン君侯国はオルハンの元で、'オスマン帝国''(1299年〜1855年、国号改称)へと進化を遂げた。

バルカン半島への侵略

オルハンの子ムラト1世は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ)を占領、ここを第2首都とするとともに、デウシルメと呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発することによる人材登用制度のシステムを採用して常備歩兵軍イェニチェリを創設して国制を整えた。
さらに戦いの中で降伏したキリスト教系騎士らを再登用して軍に組み込むことも行い、これらの政策によりオスマン帝国はさらに勢力を拡大する事になる。
1371年、マリツァ川の戦いでセルビア諸侯連合軍を撃破、東ローマ帝国や第二次ブルガリア帝国はオスマン帝国への臣従を余儀なくされ、1387年、テッサロニキも陥落。ライバル国であったカラマン侯国も滅ぼし、1389年にコソヴォの戦いでセルビア王国を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を撃破したが、ムラト1世はセルビア人貴族ミロシュ・オビリチによって暗殺されてしまった。
その息子バヤズィト1世が戦場でオスマン帝国第4代皇帝として即位したため事なきを得た上にコソヴォの戦いでの勝利は事実上、バルカン半島の命運を決することになった。なお、バヤズィト1世は即位に際し兄弟を殺害している。以降、オスマン帝国では帝位争いの勝者が兄弟を殺害する慣習が確立され、これを兄弟殺しという。バヤズィト1世は報復としてセルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチを始めとするセルビア人らの多くを処刑した。
1393年にはタルノヴォを占領、第二次ブルガリア帝国も瓦解した。しかし、オスマン帝国はそれだけにとどまらず、さらに1394年秋にはコンスタンティノープルを一時的に包囲した上でギリシャ遠征を行い、ペロポネソス半島までがオスマン帝国の占領下となった。これらオスマン帝国の拡大により、ブルガリア、セルビアは完全に臣従、バルカン半島におけるオスマン帝国支配の基礎が固まった。
さらにバヤズィト1世はペロポネソス半島、ボスニア、アルバニアまで侵略、ワラキアのミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を一時的に認めなければいけない状況にまで陥った上、コンスタンティノープルが数回にわたって攻撃されていた。この状況はヨーロッパを震撼させることになり、ハンガリー王ジギスムントを中心にフランス、ドイツの騎士団、バルカン半島の諸民族軍らが十字軍を結成、オスマン帝国を押し戻そうとした。

しかし、1396年、ブルガリア北部におけるニコポリスの戦いにおいて十字軍は撃破されたため、オスマン帝国はさらに領土を大きく広げた。しかし、1402年のアンカラの戦いでティムールに敗れバヤズィト1世が捕虜となったため、オスマン帝国は1413年まで、空位状態となり、さらにはアナトリアを含むオスマン帝国領がティムールの手中に収まることになり、オスマン帝国は一時解体されることになる。

再興の時代と失地回復の時代

バヤズィト亡き後のアナトリアは、オスマン帝国成立以前のような、各君侯国が並立する状態となってしまった。このため、東ローマ帝国はテッサロニキを回復、さらにアテネ公国も一時的ながらも平穏な日々を送ることができた。
バヤズィトの子メフメト1世は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し、その子ムラト2世は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1422年には再びコンスタンティノープルの包囲を開始、1430年にはテッサロニキ、ヨアニナを占領、1431年にはエペイロス全土がオスマン支配下となった。
しかし、バルカン半島の諸民族はこれに対抗、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュはオスマン帝国軍を度々撃破し、アルバニアにおいてもアルバニアの英雄スカンデルベグが1468年に死去するまでオスマン帝国軍を押し戻し、アルバニアの独立を保持するなど活躍したが、後にフニャディは1444年のヴァルナの戦い、1448年のコソヴォの戦いにおいて敗北、モレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除くバルカン半島がオスマン帝国占領下となった。
そしてコンスタンティノープル?にてビザンツ帝国こと東ローマ帝国最後の皇帝となるコンスタンティノス11世がギリシャにおいて一時的に勢力を回復、ペロポネソス半島などを取り戻したが、オスマン帝国はこれに反撃、コリントス地峡のヘキサミリオン要塞を攻略してペロポネソス半島を再び占領したが、メフメト1世と次代ムラト2世の時代は失地回復に費やされることになった。

失地回復後の逆襲

1453年、ムラト2世の子メフメト2世は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ついにビザンツ帝国を滅ぼした。(コンスタンティノープル陥落?)。このコンスタンティノープルはイスタンブールと改名されオスマン帝国の首都として現代まで機能することになる。
そして1460年、ミストラが陥落、ギリシャ全土がオスマン帝国領となり、オスマン帝国によるバルカン半島支配が確立した。

コンスタンティノープルを征服した後も、メフメト2世の征服活動は継続された。
またメフメト2世は、エンペラトル権力の絶対化と国家制度の中央集権化の整備を推進し、オスマン皇帝の絶対君主制度が成立した。
バルカン半島方面では、ギリシャ、セルビア、アルバニア、ボスニアの征服を達成した。また、黒海沿岸に点在するジェノヴァの植民都市の占領、1460年にはペロポネソスのパレオゴロス系モレア専制公国を、1461年にはトレビゾンド帝国を征服。
東ローマ帝国の残党は全て消滅することになり、さらには、1475年のクリミア・ハン国を宗主権下に置くことに成功、ワラキア、モルダヴィアも後にオスマン帝国へ臣従することになる。
そしてメフメト2世はガリポリを中心に海軍の増強に着手、イスタンブールと改名されたコンスタンティノープルにも造船所を築いたため、オスマン帝国の海軍力は著しく飛躍した。そして、15世紀後半には、レスボス、サモス、プサラといったいったジェノヴァの支配下にあった島々を占領、このため、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至った。
一方、アナトリア半島方面では、白羊朝の英主ウズン・ハサンが東部アナトリア、アゼルバイジャンを基盤に勢力を拡大していたため、衝突は不可避となった。1473年、東部アナトリアのオトゥルクベリの戦いでウズン・ハサンを破ったオスマン帝国は中部アナトリアを支配下に置くことに成功した。

帝国領土の最盛期〜スレイマン一世の時代

スレイマン一世は1526年、モハーチの戦いでハンガリー軍を破り、神聖ローマ帝国皇帝のハプスブルク軍と攻防を繰り返した。時の皇帝はカール5世で、スレイマンの即位の前年に皇帝となっていた。1259年、オスレイマン一世の率いる12万の大軍がハプスブルク家の本拠、ウィーンを包囲した。冬の訪れによって包囲を解いたが、このオスマン帝国のウィーン包囲は、おりからイタリア戦争、宗教改革の時代で混乱しており、カール5世は国内ではプロテスタントに譲歩しなければならなくなるほどヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威となった。
 スレイマン一世は東に転じて1534年〜1535年にはバグダッドに遠征、イラク、アゼルバイジャンからサファヴィー朝の勢力を駆逐し、1538年には艦隊をインド洋に派遣、ポルトガルのインド貿易に対抗してイエメンを支配し、その紅海とペルシア湾への侵入を許さなかった。西インドのポルトガルの拠点ディウの占領には失敗した。

オスマン帝国《後期》

スレイマン一世の死

1555年頃になると、スレイマン一世のあとを継ぐ為のオスマン家の家督と皇帝位を巡ってバヤズィトとセリムの対立が深まっていた。
またこの頃にはスレイマン一世は病に侵されており、極めてスレイマンの判断力は低下。
また、スレイマンに讒言を繰り返す官僚なども現れた。
結果、家督と皇帝はスレイマンの援護を受けたセリムが勝利。バヤズィトは謀反の罪で処刑された。
また、同時期に最愛の妻、ロクセラーナが死去している。
1566年、ハンガリーでスィゲトヴァールを包囲中に陣没した。

大帝の死後と腐敗する帝国

スレイマン一世の没後、セリム二世が即位。
セリムは大酒飲みで、政治には関心すら持たず、酒ばっか飲む堕落した生活をしていた。
しかし、大宰相ソコルル・メフメト=パシャを初めとする有能な官僚達のおかげで帝国は逆に拡大し続けた。
しかしそんなソコルルが没すると、いよいよオスマン帝国に暗雲が立ち込める。
セリムは1574年に浴室で頭を強打して急死。
セリム以後の歴代皇帝達は無能ばかりが続き、帝国の腐敗は止まることはなかった。

「瀕死の病人」の近代化

18世紀にもなると帝国の腐敗はさらに続き、かつてあんなにも強かった陸軍は近代化が遅れる有様であった。
しかし1900年に入ると、コンスタンノス二世が即位する。
彼は改革的な皇帝で、帝国を近代化へと導いた。
軍事から内政の全てをと近代化させ、オスマン帝国を「瀕死の病人」から再び「偉大なるオスマン帝国」へと復活させた。
コンスタンノスはその後も改革を続け、帝国をスレイマン一世以後の皇帝としては初の有能さを見せた。

現在

オスマン帝国から「アムルースク=オスマン帝国」と国名を変更し、現在に至る。
コンスタンノス二世が崩御し、皇帝位は空位である。また、コンスタンノス二世が辛うじて押さえつけていた、帝国議会の派閥争いなどがげきかしはじめている。

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