出生1601年
没年1632年
在任本国統治官
称号下剋上の雄
思想能力主義
宗教レヴィン教赤ビト派
概要
カラーリ・アフメト=スレイヤーは、アムルースク=オスマン帝国の元本国統治官僚。
帝国の要人として着々と勢力を伸ばし、出身地のアラビアにてその勢力を広げた。
しかし、その勢力とスレイヤー自身の能力に危惧した時の皇帝、ムラト四世により滅ぼされた。
カラーリ家はまだ10都市であったティニエ・メフメト=スレイヤーが継いだ。

生涯

政権奪取

1601年、誕生。
1620年、当時スレイヤー家の総帥であったトゥテール・アフメト=スレイヤーは、オスマン帝国に反乱を起こしたが、敗北し処刑されていた。
スレイヤー家は直系のカラーリが新たな総帥になったものの、かつてアラビア領内にオスマン皇家の皇家蔵入地(石高にすると約225万石 )を凌ぐほどの領土を持っていたスレイヤー家は大幅に厳封された。
しかし、御家取り潰しとスレイヤー 一族の粛清は免れた。
カラーリは祖父以前の領土を再興するため、帝国内で奮走することになる。
当時のオスマン帝国は、時の皇帝ムスタファ一世とムラト四世が政権争い…もとい皇位を巡って対立していた。対立は徐々に衝突になり、皇位を巡る内戦が勃発。
カラーリはムラト四世側につき、アンカラのムラト四世を擁立し、帝都イスタンブールを目指し挙兵。対するムスタファ一世側もイスタンブールを中心とした帝国の中心地で防衛体制を構築し待ち構えた。

1624年、カラーリは遂にムラト四世を連れてイスタンブールへ進軍開始。
聖地メッカを同年6月に出発。アレクサンドリア港を経由しそのままペロポネソス半島に約2万3300の大軍で上陸。
これに気づいたムスタファ一世はイスタンブールより討伐軍を派遣。
オスマン帝国、アテネにて両軍が衝突し、アテネの戦いが勃発。
アテネの戦いはカラーリ側が勝利。
しかしその後もイスタンブール軍の抵抗は続き、結局、イスタンブール郊外に着くのは一年後の1625年3月になる。
1625年3月、ムラト四世とカラーリはそのまま帝国の副都であるエディルネに入城。
イスタンブールのムスタファ一世は何回も派遣した討伐軍が壊滅したことを聞き、1625年4月29日にイスタンブールを脱出。
イスタンブールはまもなく翌日30日にカラーリ軍に包囲されたが、既に脱出していたムスタファ一世以下のムスタファ派はアンカラに後退。
イスタンブールに残っていたのは民衆と穏健派の官僚だけであった為、イスタンブール入城は比較的、安全に行われ、ムラト四世とカラーリはイスタンブールに入城した。

1625年4月30日にイスタンブールに入城したムラト四世は帝国元老院の支持を得て第17代レヴィオン(皇帝)へと即位した。
カラーリはムラト四世に本国統治官に任命され、正式に官軍の指導者となり、政権を奪取した。

退去、再び本国へ

イスタンブールに一年間滞在した後の1626年にアラビアに帰還。
カラーリが退去した後のオスマン帝国の本国にはイスタンブールのムラト四世、アンカラのムスタファ一世という二重皇帝が存在していた。

1626年3月、アンカラでムスタファ一世が挙兵。怒涛の勢いでイスタンブールまで進軍。
ムスタファ一世はかつてのメフメト二世が築いた、ルメリ・ヒサル要塞に入城するとそこを本拠にイスタンブールに向けて攻撃を開始した。
イスタンブールのムラト四世も反撃を開始し、戦線は膠着。
ムラト四世はアラビアに帰還していた、カラーリに再び助けを求め、カラーリはそれに応じた。
1626年4月30日、奇しくもイスタンブール入城と同じ日にイスタンブール防衛戦を開始した。

同年5月15日、カラーリは本国中央部に位置する都市エスキシェヒル自体を買収。
ムスタファ一世の籠るルメリ・ヒサルの背後にエスキシェヒル軍を配備、ボスポラス海峡のイスタンブール防衛軍とエスキシェヒル軍が同時にルメリ・ヒサルに挟撃を開始。
ムスタファ一世はこの奇襲に耐えられなくなり、ルメリ・ヒサルを放棄。
ボスポラス海峡より南下し、クレタ島に逃れた。

1626年12月にクレタ島上陸を開始。
約5000人のカラーリ率いる討伐軍と約3万のムスタファ一世軍はクレタ島にて激突。
しかし、小島であるクレタ島では圧倒的にカラーリ軍の方が有利であり、ムスタファ一世は徐々に追い込まれて行った。
そして1626年12月25日、聖ヨハネ騎士団の遺した砦でムスタファ一世は自害。

ここにカラーリは2人の皇帝を統一(物量)し、ムラト四世を正当なレヴィオンに即位させることに成功した。

主君との対立と最期

1627年、この頃よりムラト四世とカラーリは対立し始める。
ムラト四世はレヴィオンに即位した後、カラーリを左遷し、自身の側近から外した。
この状態が3年も続いた後の1630年、カラーリはムラト四世のお気に入りであり、民衆にも支持を得ていたアナータ・ダレヤネンを滅ぼしてしまう。

これによりムラト四世の怒りを買い、カラーリは幽閉される。
幽閉先のエディルネ城にてカラーリは故アナータを支持していた民衆に襲われた。(その総勢は10万とも。)
カラーリは「もはやこれまで。」と言い残し、エディルネ城の謁見の間にて自害し果てた。享年31歳。

その自害の方法も凄まじく、腹を切り開き、中の臓器を天井に投げつけるという壮絶さであった。

こうして志半ばにて無念の死を遂げたカラーリだが彼の息子たちである、ティニエ、シュトル、ベルトル、アプトルはいずれも名将と称され、スレイヤー家を大きく飛躍させ、アムルースク=オスマン帝国の皇帝と大宰相の実権を掌握し、最盛期を築くことになる。
死後から20年余り、カラーリの嫡男、ティニエにより盛大な墓が建てられた。

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