1627年、この頃よりムラト四世とカラーリは対立し始める。
ムラト四世はレヴィオンに即位した後、カラーリを左遷し、自身の側近から外した。
この状態が3年も続いた後の1630年、カラーリはムラト四世のお気に入りであり、民衆にも支持を得ていた
アナータ・ダレヤネンを滅ぼしてしまう。
これによりムラト四世の怒りを買い、カラーリは幽閉される。
幽閉先のエディルネ城にてカラーリは故アナータを支持していた民衆に襲われた。(その総勢は10万とも。)
カラーリは「もはやこれまで。」と言い残し、エディルネ城の謁見の間にて自害し果てた。享年31歳。
その自害の方法も凄まじく、腹を切り開き、中の臓器を天井に投げつけるという壮絶さであった。
こうして志半ばにて無念の死を遂げたカラーリだが彼の息子たちである、ティニエ、シュトル、ベルトル、アプトルはいずれも名将と称され、スレイヤー家を大きく飛躍させ、
アムルースク=オスマン帝国の皇帝と大宰相の実権を掌握し、最盛期を築くことになる。
死後から20年余り、カラーリの嫡男、ティニエにより盛大な墓が建てられた。