1920年代当時、
第一次世界大戦?後の大正好景気崩壊により、豊後の経済は自立できず、
北アメリカ連合王国など当時の同盟国からの支援を受けていた。またこの頃は新希望主義の概念がなく、どちらかと言うと教皇を中心とした帝国主義を掲げていた。これは前身の豊後立憲党も同じであった。
領土の拡大方針は広く国民の支持を受け、その後の台湾、樺太、千島併合へと繋がる。
またこの頃は保守、改革共に分裂状態であった。
しかし長らく左派と右派に分裂していた
豊後社会党?が統一で合意すると、財界からの圧力も受け保守派再編が行われた。
しかし自由民主党板垣退助党首は伊藤博文を毛嫌いしており完全な合流はできなかった。しかし板垣の方針に異を唱えた数名のみは合流し、希望の党が結党された。
板垣、伊藤両名死後、希望の党党首江戸小唄市丸と自由民主党党首小唄勝太郎はライバルとなるが自由民主党の方が政党として弱く、また市丸首相が行った政策は広く国民の支持を得たこともあり、希望の党が圧倒的優位となり、1939年までの13年という世界基準で言えば長期政権となった。