1526年、エルヴィン・シャルルは1526年頃よりブルサ=テューダー家に士官し、その重役となっていた。シャルルはエルヴィン家を再興するため、奔走し父フィリップの遺したブルサの少領を本拠に、ここから勢力を拡大した。
当時の帝国はスレイマン一世の元でモハーチの戦いや第一次ウィーン包囲などで最盛期を築いていたのもあり、帝国は世界にも稀に見る黄金時代であった。
シャルルは父が行った帝国政府に直接士官するのではなく、ブルサにあるアナトリア地方府(
本国)に士官し中央ではなく、本領で力を蓄える方策に転換した。
1550年頃にはブルサ=テューダー家の重臣としてブルサ=テューダー家当主を補佐するほどにまで再興し、勢力を拡大していた。
シャルルの元で回復し勢力を拡大したエルヴィン家だったが、シャルルが1554年に72歳で没す。
跡を継いだルイはブルサ=テューダー家頼みだった今までの先祖達とは大きく転換し独立傾向を高める。ブルサ=テューダー家の一家臣に過ぎなかったエルヴィン家を独立させるためにルイは管領家と仲が悪く対立していた分家のエディルネ=テューダー家と手を組み、共にイスタンブールの
スレイマン一世に直言し、エルヴィン家は見事下級としてだが貴族として取り上げられる。
が、ルイは貴族としては向かなかったのか貴族としての地位を放り投げて武家として一新する。
かつてのオスマン家のように武力で全てを手に入れると決めたルイはエジプトとムハンマド・アリー家に士官。エジプトやアラビア、北アフリカなどで転戦しまくり各地で勝利。
功を稼ぎまくった結果、これはイスタンブールの管領家と皇室にも届き、
皇帝スレイマン一世直属の武家となる。
ルイはスレイマン一世の元で数々の戦いに参陣してスィゲトワァール包囲戦やマルタ島遠征に従って戦う。
1566年、スレイマン一世が没すると大宰相や管領家が帝国の実権を握ることになり、皇帝直属の武家であったエルヴィン家は中央より遠ざけられることになった。
スレイマン一世の死によって戦いという素晴らしいものを失ったルイはその後主人を追うようにして1582年に死去。
ルイの後は弟のオーギュストが継いだ。
コメントをかく